どうも美学者母です。
世間ではコロナの第二波が来たと、
その様に言われているみたいですが、
私自身は自分自身の考えがある上で、
社会に合わせていかなければならない所は、
最低限合わせるというスタンスです。
まぁこんなコロナ騒動の真っ只中で、
僕的に一番気づく事があったとしたら、
世の中の人間がいかに、
「絶対」とか「完全」という概念に、
洗脳されているのだという驚きと、
気づきを同時に得たわけです。
現在では100人いれば100人マスクをしている。
その様な光景は私にとっては異様な光景であり、
ある種北朝鮮のマスゲームを観ている様で、
非常にこの先の日本を憂うわけです。
例えば洗脳されているものは違えど、
第二次世界大戦へ向かった当時の日本、
オウム真理教、
新興宗教。
そもそも「絶対」とか「完全」、
そんな幻想を信じる事も人間の性である。
その様にも言えるわけですが、
その様なある種の「信仰」が、
現在では通用しない時代が訪れている。
その様な事実も現実としてあります。
しかし現実として、
この様な世界や社会を生きているわけで、
現実的にどの様に生きていくのか、
それを考え実践していかなければなりません。
もはや現在の様な状態は、
それを無視して生きていく事は困難です。
その様な状況で皆様に少しでも、
お役に立てる考察を述べていきたいと、
考えています。
【添付図参照 相対性と絶対性の転移】
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まず近代は完全に終わったという事実です。
日本は明治以降に西洋的価値観の元、
近代的視座を取り入れていったわけです。
それは例にもれずにアートも同じであり、
むしろアートというもので、
国民国家という体制を強化した経緯もあります。
それが例えば東京藝術大学や日展など、
現在でもその痕跡が見受けられます。
それは西洋的価値観に基づく、
「絶対性」という幻想の構築及び洗脳です。
それは例えば神や権威、
さらに科学や芸術というものを、
ある種「絶対化」させる事で、
信じる対象を国民に統一させ、
その上で近代的国民国家を実現させる。
その様なレトリックにより、
日本は劇的な成長を実現したのです。
しかし高度経済成長も終わり、
バブルが崩壊し、
経済や科学、
文化がある種成熟期に入り、
その様な「絶対」や「完全」が、
この「世界」や「社会」において、
機能しなくなっていることに、
日本も含め世界中の近代国家を目指した、
国々で問題が表面化してきている。
それが正に今回の「コロナ騒動」により、
より表面化したという状況です。
その様な近代が終焉し、
現代という時代が、
もうすでに20年程度前から始まっている。
私はその様な考察をおこなっています。
それはインターネット黎明期と重なっている。
その様な事にも注意が必要です。
そして現在、
どの様な状況にあるのか、
添付図「相対性と絶対性の転移」でも、
理解できる様に、
現代的視座において、
まだ「絶対」という「信仰」は終わっておらず、
それは端的に言えば、
「権威」などから「民衆」に転移した、
その様な状況が「現代」と言える。
ここをもう少し考察すると、
この「権威」を持った「民衆」や「社会」には、
「人間」という「個人」の実態が無い、
このポイントは非常に重要です。
現代の非常に危険な要素として、
一人一人の人間は民衆や社会を構成しているが、
一人一人の人間そのものは、
全く自分たちが「絶対性」や「絶対化」を獲得し、
ある種自分たちが「権威」を宿した、
「民衆」や「社会」の一部であるという事に、
「無自覚」であるという事である。
この様な現実は、
特に「インターネット」などで散見される。
そして逆説的に、
私の様なアートを専門にしている人間や、
科学や宗教、
その様なある種マイノリティーな人間では、
「絶対」や「完全」というものは、
「幻想」であると気づいてしまっているのである。
ここで皆様も気づくであろうが、
「近代」「現代」においてある種、
専門家と社会との逆転である。
まずこの逆転にこそ、
あらゆる専門家は気づかなければ、
現代という時代を生き抜いていけないであろう。
それは現代において、
「民衆」や「社会」が「絶対的」、
なものであるからである。
ではこの様な事から、
現在においてアートはどの様に可能なのか。
これは薄々気づきながらも、
見て見ぬ振りをしているアーティストも、
非常に多いであろう。
またそれを実践しているアーティストが、
村上隆であることも自明である。
【添付図参照 現在のアートの在りどころ】
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添付図でも示した通り、
明治以降日本は西洋的アートに基づき、
アートというものを考え実践し、
それがある種体系化されてきたのである。
それは私が言うところの、
絶対・完全(全体としてのアート)である。
これは端的に言えば、
アートそのものに絶対性を観る。
その様なアートである。
しかし現在は原理的に、
「絶対」や「完全」はありえないし、
それは幻想である。
しかしその「幻想」の「幻影」さえも、
「民衆」や「社会」が担っているのである。
もはや「アート」にとって「権威」は、
「裸の王様」そのものになっているのである。
その上で現在において可能なアートとは、
「東洋的アート」なのである。
この様な東洋への原理の移行は、
芸術のみならず、
科学では量子力学、超弦理論。
経済では分散型、シェアリング、クラウド。
宗教では仏教、道教、儒教。
様々な分野において東洋的原理に移行している。
これは現在において完全なる事実である。
そしてアートも例にもれない。
添付図でもある様に、
アートも全体的アートから、
部分的アートに移行している。
またこの様な事実も、
多くのアーティストが薄々気づいている。
しかし人間とはその事実に気づいても、
なかなか自分自身のアイデンティティを、
否定する事が難しいのも事実である。
今後この事実に向き合い、
真摯にその事実に適応していく、
アーティストしか生き残れないだろう。
では具体的に部分的アートとはどの様なものか。
最後にその点を解説して終わりにしたい。
端的に言えば「アート」に「絶対性」は無く、
「絶対化」もできない。
その上で理解しなければならないのは、
「アート」も他にもれず、
「関係性」によって成立するのだ、
という至極真っ当な帰結である。
つまり「アート」をいかにして、
「庶民」や「社会」に接合し、
「機能」を果たせるのか。
この点が非常に重要であり、
また社会に対して「能動的押し付け」、
つまり「私、私。」「俺、俺。」。
という利己的なものでなく、
受動的に「庶民」や「社会」が求める、
ある種のニーズ、
それはある種の社会から与えられる「義務」、
その様に言っていいのかもしれない。
その「義務」を果たすことこそ、
現在においての「アート」が成立する、
条件であると私は考えている。
最近は特に利己的なアートを観ると、
吐き気がしてくる。
それはこの時代にはもはや、
アートではないからである。
最後に、
美学者母と哲学者大和の作品を、
実例として紹介して終わりにする。
ウェブアート宣言、
「ウェブインスタレーション」
インターネットにある言語そのものを、
アートにした作品。
(機能)
皆様がこれを読んでいるという事実の通り、
文章としての機能を有する。
「狭山美学校」
空間やサービス、
環境を、
アート作品にした作品。
(機能)
民宿などの機能を有する。
「お茶と美」
空間やサービス、
環境を、
アート作品にした作品。
(機能)
エステティックサロン、
リラクゼーションサロン、
その他サービスの機能を有する。
美学者母