No.386

愛と慈しみの原理
(最も遠くの他人への慈しみこそが
芸術(アート)を成立させる)

text : mama(美学者母)
2020年8月24日(月曜日
)執筆

 

えっと美学者母です!!!

僕も「愛」というものを研究して、
早十年以上経過しているわけですが、
「愛」というのは「体験」であるわけです。

そしてその「愛の体験」というものは、
人間にとって非常に重要な体験であり、
また別の角度から申しますと、
一つの「通過儀礼」とも言えるものです。

また「処女」や「童貞」を過ぎる、
その様な性体験も同様のことと、
捉えることができます。

しかし私も「愛」というものを研究して、
「愛」というものの人間の重要さとともに、
その副作用としての危うさというものも、
「愛」というものを研究する上で、
避けては通れないものであるわけです。

つまり「愛」とは「刹那的体験」であって、
それは決して持続するものではないという、
非常にシンプルな問題なわけです。

その様な問題を解決する上で、
今回重要なものとして「慈しみ」、
それを考えていきたいと思います。

まず「慈しみ」というものは、
「愛」という刹那的体験を原理に発露されます。

それは「慈しみ」とは、
「愛」という刹那的体験を通過しなければ、
現れないものであるという事です。

その上でこの「慈しみ」と混同されやすいのが、
「利他」や「利己」という概念です。
まずこの「利他」や「利己」は、
意識しようが意識しまいが、
「自己」が「他者」を通じて、
「利」を得ようとする行為に他なりません。

例えば「利己」は、
「他人」を犠牲にして自分に「利」を得よう、
その様なものです。

例えば「利他」は、
「他人」を優先して「利」をもたらす事で、
自分にもその恩恵として「利」を得よう、
その様なものです。

しかし「慈しみ」とは、
そもそも自分に「利」というものを、
意識すらできないというものです。

それを簡単な図で表したものをご覧ください。

 

※添付図参照(利己と利他と慈しみの違い)

 

 

この図は、
利己と利他と慈しみの違いを、
簡単に図で表したものです。

まずここで注目したいのが、
中心の「自己」というものは「身体」である、
その様な事です。
この点は後で説明するので覚えておいてください。

まず「利己」とは、
他者を犠牲にして自己に利を得る事です。
そして「利他」とは、
他者を優先して利を与える事で、
結果的に自分にも利を得る事です。
そして重要な「慈しみ」とは、
そもそも「認知不可能な他者」に対して、
「利」を与える事です。

では「認知不可能な他者」とは、
どの様な「他者」なのでしょうか。
それを誤解を招くことを前提に、
理解しやすく勇気を持って説明するならば、
それは「地球の裏側の他人」です。

私たちはおそらく、
私たちが生きている間に、
一度も会うこともなく、
また直接的にも間接的にも、
全く関係する事が一般的にはない、
その様な「他者」です。

つまりその「他者」に「利」を与えても、
まず「自己」が「利」を得ることは不可能です。

これが誤解を恐れず簡便に説明した、
「慈しみ」です。

 

しかしもっとこの、
「慈しみ」を踏み込んで解説したい、
そう思うのです。
その上で踏まえておくべき事が、
いくつかあります。
それは前述した、
「慈しみ」には「愛」という、
刹那的体験を通過する必要がある。

次に「自己」には、
「自己」の中にある「他者」がある、
というものです。
それを図で表したものがあります。

 

※添付図参照(意識としての他者と身体としての自己)

 

先ほど覚えておいてほしいと述べた、
「自己」とは「身体」である。
その様なものが図として表しています。

これは一般的な考え方とはかなり離れていますが、
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授 、
である前野隆司教授の、
受動意識仮説に近いのではないかと、
勝手に考えています。

まず私たちが考える「自己」とは、
ある種の生物学的とか動物的「身体」である。

その様に定義します。

その上で、
私たちが「意識」と考えているものは、
「他者」として定義します。

さらに「無意識」を「主体」として定義します。

この様に定義した上で、
一般的に一人の人間や人格として扱われる「単位」、
としての一般的に「自己同一性」を持つ「自己」が、
その集合として定義できます。

つまりここで重要な問題は、
一般的に「自己同一性」を持つ「自己」には、
「他者」があるという事であり、
その「他者」は、
最も「自己」であると自明である「意識」が、
「他者」であると考える事です。

そして次の図を見て頂きたい。

 

※添付図参照「愛と慈しみの原理」

 

 

ではここからはここまで述べてきたことを前提に、
「愛」から創造されるものと、
「慈しみ」から創造されるものの違い、
その様な事を述べていきたい。

私は2020年頃から、
芸術や美術、
アートに対しての考えが大きく変化した。

それは例えば「アート」には社会と合意した、
「機能」がなければならないとか。
アーティストとは、
アーティストとしての「義務」を果たすものである。
「権利」ばかりを主張するものは、
そもそも「アーティスト」であり得ないとか。

その様な移り変わりが起こっており、
私の文章を長年読んでいる方であれば、
その変化には当然気づいているであろう。

その変化の原理として、
「慈しみ」が大きくあるという事です。

さらに「愛」という「体験」を通過した人間は、
「慈しみ」を実践しながら人間の営みを過ごす以外に、
幸せに生きていけない。

その様な「真理」に気づいたからです。

「愛」は「人間」にとって最も尊い体験です。
だからこそ、
その「愛」という「体験」を悪いものにしない、
その様な営みが「慈しみ」なのです。

「愛」という「体験」は、
その刹那に「絶対的な欠損の補い合い」という、
ある種「絶対的な体験」をしてしまうわけです。

だからこそ、
その「体験」から「日常の営み」を紡いでいく中で、
互いに補い合え無い「空白」が表面化し、
その充足してもらえない事から創造される。

ある種の「恨み」や「憎悪」が、
人間を苦しめるわけです。

しかしその様な「苦しみ」を手放す。

それが「利」を自己が得る事自体が不可能な、
「慈しみ」という営みなのです。

そして私はこの「慈しみ」こそが、
芸術(アート)を成立させる原理だと考えています。

芸術(アート)そのものの体験は、
まさに「愛」の「体験」です。

これは私が長年に渡って言説している事です。

それに加えてこれからは、
芸術作品(アート作品)とは「慈しみ」である。
その様に私の美学に加えたのです。

つまりアーティストとは、
いかに「慈しみ」を創造し得るのか 、
その様な問題に真剣に向き合う者である。
その様に理解できます。

私は最近「自己愛」や「ナルシズム」に、
満たされた「アーティスト」や「作品」に出会うと、
本当に吐き気がするわけです。

この「自己愛」や「ナルシズム」と、
「慈しみ」は一見見間違えてしまいそうである、
しかし全く違うものです。

それを理解しやすい図が先ほども参照したものです。

 

※添付図参照(意識としての他者と身体としての自己)

 

 

最後にこの自己の中にある他者との関係における、
「自己愛やナルシズム」と「慈しみ」の違い、
それを述べて終わりにしたいと思います。

自己愛やナルシズムとは、
意識(他者)から身体(自己)への「愛」です。

この精神性を原理にしている、
アーティストや作品が日本では、
芸術(アート)として広く認知され、
一般性を有しています。

その上で「慈しみ」とは、
身体(自己)から意識(他者)への「慈しみ」です。

さらに踏み込んで言説するならば、
意識(他者)への「慈しみ」は、
無意識(主体)も介入するでしょう。

この様な「慈しみ」という、
精神性を原理にしている、
アーティストや作品は日本では、
芸術(アート)として認知されない、
それが現実です。

 

ではこの様なことから何が理解できるか。
それは単純で、 芸術(アート)とは、
絶対や完全なものでなく、
芸術(アート)とは、
相対的で不完全なものである。

この様な至極真っ当な現実である。

つまり芸術(アート)は、
アーティストや作品、
という自己や、
自己の中の他者、
そして最も遠くの他者。

その様なあらゆる関係性により、
芸術は体験する事が可能であり、
また芸術(アート)は成立し得るのである。

それはまた愛の体験である。

つまり、
自己愛やナルシズムに満ちた、
アーティストや作品には、
そもそも、
それのみで成立するものであり、
そもそも芸術の前提が無いのである。

 

 

美学者母

 

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