えっと美学者母です!!!
僕も「愛」というものを研究して、
早十年以上経過しているわけですが、
「愛」というのは「体験」であるわけです。
そしてその「愛の体験」というものは、
人間にとって非常に重要な体験であり、
また別の角度から申しますと、
一つの「通過儀礼」とも言えるものです。
また「処女」や「童貞」を過ぎる、
その様な性体験も同様のことと、
捉えることができます。
しかし私も「愛」というものを研究して、
「愛」というものの人間の重要さとともに、
その副作用としての危うさというものも、
「愛」というものを研究する上で、
避けては通れないものであるわけです。
つまり「愛」とは「刹那的体験」であって、
それは決して持続するものではないという、
非常にシンプルな問題なわけです。
その様な問題を解決する上で、
今回重要なものとして「慈しみ」、
それを考えていきたいと思います。
まず「慈しみ」というものは、
「愛」という刹那的体験を原理に発露されます。
それは「慈しみ」とは、
「愛」という刹那的体験を通過しなければ、
現れないものであるという事です。
その上でこの「慈しみ」と混同されやすいのが、
「利他」や「利己」という概念です。
まずこの「利他」や「利己」は、
意識しようが意識しまいが、
「自己」が「他者」を通じて、
「利」を得ようとする行為に他なりません。
例えば「利己」は、
「他人」を犠牲にして自分に「利」を得よう、
その様なものです。
例えば「利他」は、
「他人」を優先して「利」をもたらす事で、
自分にもその恩恵として「利」を得よう、
その様なものです。
しかし「慈しみ」とは、
そもそも自分に「利」というものを、
意識すらできないというものです。
それを簡単な図で表したものをご覧ください。
※添付図参照(利己と利他と慈しみの違い)
この図は、
利己と利他と慈しみの違いを、
簡単に図で表したものです。
まずここで注目したいのが、
中心の「自己」というものは「身体」である、
その様な事です。
この点は後で説明するので覚えておいてください。
まず「利己」とは、
他者を犠牲にして自己に利を得る事です。
そして「利他」とは、
他者を優先して利を与える事で、
結果的に自分にも利を得る事です。
そして重要な「慈しみ」とは、
そもそも「認知不可能な他者」に対して、
「利」を与える事です。
では「認知不可能な他者」とは、
どの様な「他者」なのでしょうか。
それを誤解を招くことを前提に、
理解しやすく勇気を持って説明するならば、
それは「地球の裏側の他人」です。
私たちはおそらく、
私たちが生きている間に、
一度も会うこともなく、
また直接的にも間接的にも、
全く関係する事が一般的にはない、
その様な「他者」です。
つまりその「他者」に「利」を与えても、
まず「自己」が「利」を得ることは不可能です。
これが誤解を恐れず簡便に説明した、
「慈しみ」です。
しかしもっとこの、
「慈しみ」を踏み込んで解説したい、
そう思うのです。
その上で踏まえておくべき事が、
いくつかあります。
それは前述した、
「慈しみ」には「愛」という、
刹那的体験を通過する必要がある。
次に「自己」には、
「自己」の中にある「他者」がある、
というものです。
それを図で表したものがあります。
※添付図参照(意識としての他者と身体としての自己)
先ほど覚えておいてほしいと述べた、
「自己」とは「身体」である。
その様なものが図として表しています。
これは一般的な考え方とはかなり離れていますが、
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授
、
である前野隆司教授の、
受動意識仮説に近いのではないかと、
勝手に考えています。
まず私たちが考える「自己」とは、
ある種の生物学的とか動物的「身体」である。
その様に定義します。
その上で、
私たちが「意識」と考えているものは、
「他者」として定義します。
さらに「無意識」を「主体」として定義します。
この様に定義した上で、
一般的に一人の人間や人格として扱われる「単位」、
としての一般的に「自己同一性」を持つ「自己」が、
その集合として定義できます。
つまりここで重要な問題は、
一般的に「自己同一性」を持つ「自己」には、
「他者」があるという事であり、
その「他者」は、
最も「自己」であると自明である「意識」が、
「他者」であると考える事です。
そして次の図を見て頂きたい。
※添付図参照「愛と慈しみの原理」
ではここからはここまで述べてきたことを前提に、
「愛」から創造されるものと、
「慈しみ」から創造されるものの違い、
その様な事を述べていきたい。
私は2020年頃から、
芸術や美術、
アートに対しての考えが大きく変化した。
それは例えば「アート」には社会と合意した、
「機能」がなければならないとか。
アーティストとは、
アーティストとしての「義務」を果たすものである。
「権利」ばかりを主張するものは、
そもそも「アーティスト」であり得ないとか。
その様な移り変わりが起こっており、
私の文章を長年読んでいる方であれば、
その変化には当然気づいているであろう。
その変化の原理として、
「慈しみ」が大きくあるという事です。
さらに「愛」という「体験」を通過した人間は、
「慈しみ」を実践しながら人間の営みを過ごす以外に、
幸せに生きていけない。
その様な「真理」に気づいたからです。
「愛」は「人間」にとって最も尊い体験です。
だからこそ、
その「愛」という「体験」を悪いものにしない、
その様な営みが「慈しみ」なのです。
「愛」という「体験」は、
その刹那に「絶対的な欠損の補い合い」という、
ある種「絶対的な体験」をしてしまうわけです。
だからこそ、
その「体験」から「日常の営み」を紡いでいく中で、
互いに補い合え無い「空白」が表面化し、
その充足してもらえない事から創造される。
ある種の「恨み」や「憎悪」が、
人間を苦しめるわけです。
しかしその様な「苦しみ」を手放す。
それが「利」を自己が得る事自体が不可能な、
「慈しみ」という営みなのです。
そして私はこの「慈しみ」こそが、
芸術(アート)を成立させる原理だと考えています。
芸術(アート)そのものの体験は、
まさに「愛」の「体験」です。
これは私が長年に渡って言説している事です。
それに加えてこれからは、
芸術作品(アート作品)とは「慈しみ」である。
その様に私の美学に加えたのです。
つまりアーティストとは、
いかに「慈しみ」を創造し得るのか
、
その様な問題に真剣に向き合う者である。
その様に理解できます。
私は最近「自己愛」や「ナルシズム」に、
満たされた「アーティスト」や「作品」に出会うと、
本当に吐き気がするわけです。
この「自己愛」や「ナルシズム」と、
「慈しみ」は一見見間違えてしまいそうである、
しかし全く違うものです。
それを理解しやすい図が先ほども参照したものです。
※添付図参照(意識としての他者と身体としての自己)
最後にこの自己の中にある他者との関係における、
「自己愛やナルシズム」と「慈しみ」の違い、
それを述べて終わりにしたいと思います。
自己愛やナルシズムとは、
意識(他者)から身体(自己)への「愛」です。
この精神性を原理にしている、
アーティストや作品が日本では、
芸術(アート)として広く認知され、
一般性を有しています。
その上で「慈しみ」とは、
身体(自己)から意識(他者)への「慈しみ」です。
さらに踏み込んで言説するならば、
意識(他者)への「慈しみ」は、
無意識(主体)も介入するでしょう。
この様な「慈しみ」という、
精神性を原理にしている、
アーティストや作品は日本では、
芸術(アート)として認知されない、
それが現実です。
ではこの様なことから何が理解できるか。
それは単純で、
芸術(アート)とは、
絶対や完全なものでなく、
芸術(アート)とは、
相対的で不完全なものである。
この様な至極真っ当な現実である。
つまり芸術(アート)は、
アーティストや作品、
という自己や、
自己の中の他者、
そして最も遠くの他者。
その様なあらゆる関係性により、
芸術は体験する事が可能であり、
また芸術(アート)は成立し得るのである。
それはまた愛の体験である。
つまり、
自己愛やナルシズムに満ちた、
アーティストや作品には、
そもそも、
それのみで成立するものであり、
そもそも芸術の前提が無いのである。
美学者母