No.387

美術は死んだ
(死ぬ事に抵抗は無い、
死んだ様に生きる事に抵抗する)

text : mama(美学者母)
2020年9月2日(水曜日
)執筆

 

 

先日大怪我をしまして、
肋骨4本骨折など、
体の左半身が重症です。

まぁこの様に文章をタイピングしているので、
なんとか生き残ることができたのですが、
私は常に「死」というものに向き合い、
日々を過ごしているので、
体の痛み以外は通常通りです。

本当は肋骨の骨折の場合は、
入院する方がいいのですが、
なんやかんやとやる事が多く、
入院はお断りしましたwww

まぁこの文章も、
現在の臨場感を持って書きたいですし、
肋骨をおさえながら書いていますwww

色々予定は狂ってしまったのですが、
経験上これが人生です。

私もこの様に死にかけるという経験は、
人生で5度や6度では足りないのです。
それは僕自身、
「死」というものを常に意識し、
「生」と「死」の間の、
ギリギリを常に生きているから、
なのだと考えています。

別に進んで死にたいわけではありませんが、

「死んだ様に生きる事」

それだけには抵抗しています。

しかしこの様な「死」に近づく経験は、
ある種それまでの「人生」と、
それからの「人生」を、
全く違うものにするし、
世界の見え方も完全に変化します。

ある種のイニシエーションの機能を持ち、
自分自身のそれまでの愚かさを、
体験的に知るわけです。

私は日々この瞬間の刹那を意識し、
謙虚さを持って生きる事で、
「自己」というものを、
常にアップデートしているわけです。

その様な私の経験を踏まえて、
本日皆様にお伝えしたいことは、
「美術は死んだ」 という言説です。

これはもっと踏み込んで言説すると、
広い意味では、
「日本は死んだ」 という事にもなります。

 

それは「美術」は基とより、
経済、政治、社会、文化、
様々なものがもうすでに終わっている。
その事に自分が「死」を実際に感じた後で、
さらに明確なものであると確信しました。

それらを少し具体的に言説すると、
それは「明治以降の日本の終わり」、
と言えます。
現在の日本のあらゆるものの基本が、
「明治」期にできました。

それは「美術」という言葉や概念も、
例に漏れません。
そもそも日本には「美術」という、
言葉も概念もなかったわけです。

ART=に対応する日本語と概念として、
明治にできたのが「美術」です。
そこから漏れてできたものが「工芸」です。

そしてその時期の、
西洋のアートスタイル(美術様式)、
またはムーブメントが、
印象派(インプレッショニズム)であり、
その事に対応した、
ART=の対概念として、
「美術」という「日本語」と「概念」が、
産まれたわけです。

その様な「明治」期以降の日本は、
西洋の価値観をどんどん取り入れ、
国民国家を成立させ、
経済や科学技術をどんどんと発展させ、
高度経済成長を迎えるわけです。

つまりこの成功体験が、
現在の日本のドグマとして、
現れているのが現在です。

それは例えば「美術」で言えば、
その時代の印象派が全盛であった、
フランスの「美術システム」を模範し、
今の東京藝術大学や日展を作ったわけですが、
それが現在もドグマとして残っています。

そもそもなぜこの様な、
日本の「美術システム」が、
「死んだ」と僕が言うのか。

それはその様な価値観自体が、
現在において「不幸」であるからです。
なぜならこの様な、
「西洋」の「キリスト教」を基本とした、
「絶対性」をベースにした価値観は、
現在西洋においても総括され、
過去の価値観として清算されています。

これは「科学」としても「哲学」としても、
「フィクション」=「絶対性」として、
扱われており完全に過去の価値観となっています。

その価値観に囚われて衰退しているのが、
欧州や日本など、
時間軸をベースにした、
「歴史」を拠り所とする国々です。

それは逆に、
アメリカや中国など、
「歴史」を拠り所にしない国々が、
発展をしている現実からも理解できます。

つまり日本という単位で、
もっと言えば世界という単位で考えても、
いち早くこの、

「フィクション=絶対性」

という価値観から脱却することが、
「世界すべての幸せ」になるという事です。

この様なものからの脱却は、
まず「教育システム」から変えなければ、
どんどんと「負の連続性」を生み出します。

日本でもこの様な「教育システム」の、
「負の連続性」に気づき、
その様な価値観から脱却してきている、
その様な人々もどんどんと増えています。

しかし根本的に「教育システム」を、
変えていかなければ、
その根本的な「洗脳」はとけないのです。

それにはおそらく、
「大きな衝撃」が必要になってきます。
それは一種のイニシエーションであり、
それを通過しなければ、
その様な価値観に移ってはいけないでしょう。

例えば「美術」の「教育システム」で言えば、
藝大美大の入試に「デッサン」を用いるのも、
完全な明治以降のドグマです。

なぜなら「デッサン」は、
絶対的な現実という「フィクション」を、
写し取ろうという行為に他なりません。

しかしそもそも、
「絶対的な現実」など存在しない、
その様な価値観に完全に移行しているのが、
現在の世界であり、
これは私の持論でもなく、
眼前にその事実があるわけです。

そもそも「デッサン」が、
フィクションである様に、
デッサンなどの「フィクション」を、
信じたい人々は。
現在の現実や事実そのものから目を逸らす、
という自分自身そのものが、
フィクションの世界に生き、
そのフィクションを見続けている。
非常に哀れで傲慢な人々なのです。

しかしその「教育システム」にも、
変化の兆候もあり、
東京藝術大学先端芸術表現科などは、
論文での入試なども取り入れられている様です。

 

では現在の「アート」も含めて、
世界全体はどの様な価値観に移行したのか。

それは、

「シミュレーション」

という価値観です。

この概念は現在の日本では、
なかなか理解しづらい概念です。

それは現在の日本の過半数以上、
つまり常識が「フィクション」に、
あるからです。

「アート」の「システム」ではこれを、
「シミュレーショニズム」と呼んでいます。

さらにもっとマクロで根本的な「哲学」として、
理解するならば、
アメリカで産まれた哲学、

「プラグマティズム」

さらに「科学」や「物理学」として、
理解するならば、
「量子力学」など周辺概念から理解すれば、

「アートシステム」における、
「シミュレーショニズム」を、
しっかりと理解できるはずです。

この様な「シミュレーショニズム」は、
冒頭に言説した、
私の「死」に直面した「体験」に、
繋がってきます。

つまり私たちは、
「フィクション」に生きているのでは無い、
「現実的に現実を生きている」のです。

それは「他人」の「人生」ではなく、
「自分」の「人生」です。
その「人生」は「人間」の数、
いや最低「人間の数」以上に存在し、
それは「多重世界」として在るわけです。

つまり「絶対性」という、
「唯一」に収束する「フィクション」では無く、
「相対性」という、
「分散」に拡散する「シミュレーション」。

まさに現在の世界はその、
「シミュレーション」に移行しました。

しかし、 日本はそれについていけずに、
衰退が始まっています。

現在日本の人々は、
「経済」「科学」「文化」「芸術」、
様々な分野で衰退し化石化しています。

つまり私たちは、

「未来にある死」という 、
「フィクション」を生きるのではなく、
「目の前にある死」という、
「シミュレーション」を生きなければ、
どんどんと化石化し、
衰退していくしかない、
それが現在に事実としてある世界なのです。

 

 

 

美学者母

 

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