(切断芸術運動展について)
まず私が今回10年以上ぶりに、
この様な物理空間上での展覧会に、
参加させていただいたのは、
2010年5月9日に「ウェブアート宣言」を、
宣言して以降初めてになります。
それはそもそも、
物理空間上の展覧会などに、
意味を感じなくなったわけであり、
それと同時に、
「ウェブアート宣言」を宣言し、
もう10年以上に渡って、
WEBを中心にアート活動を、
行ってきました。
その上で今回、
光栄にも美術家の彦坂尚嘉さんにお誘いをいただき、
今回「通算44回 切断芸術運動展」、
に参加させていただきました。
彦坂尚嘉さんは、Facebook上で繋がらせていただき、
彦坂尚嘉さんの、現在の美術活動や過去の美術活動を知り、
また彦坂尚嘉さんの、作品を通して、
その論理的展開や美術の構造的解釈など、
私自身のアートに対する姿勢に非常に近いものを覚え、
私が尊敬する数少ない美術家です。
彦坂尚嘉さんを詳しく知りたい方は、
wikiペディアで調べてみてください。
今回「通算44回 切断芸術運動展」に参加したのは、
ただ単に彦坂尚嘉さんを尊敬しているから、
というわけではなく。
実際にこの切断芸術運動が重要な美術運動であると、
私自身が理解しているからです。
その私なりの理解を述べておきたいのですが、
これから述べることは、
実際に切断芸術運動を始めた、
彦坂尚嘉さんの、考えではない、
また切断芸術運動の運動主体の、考えではない、
その点は御留意下さい。
まず現在において芸術、
特に美術においての創造行為の民主化は、
日本ではすでに浸透し終わっている。
その様に私は理解しています。
つまり美術作品を創るという行為は、
誰でもできる時代であるというのが、
私の現在の認識です。
しかしながらその様な美術作品を創る行為を、
特権的、特異なもの、
また特別なものであると差別化する事で、
旧体制において利益を享受してきた、
画壇やコミュニティ、
様々な美術関係者が現在の日本には存在しています。
その既得権益を守りたいが為の美術システムが、
明治以降続いている現在の日本の美術システムです。
つまり、その様な既得権益者にとって、
美術が誰でも創れるものである事は、
自らの食い扶持をなくす事であり、
死活問題であるから、
事実そうであっても、
何かしら言い訳をしてそれを否定するわけです。
現在において美術を創るという行為は、
スマートフォンやパソコンによって、
誰でも短時間で容易にできるのです。
しかしそれ自体を美術であると、
認めなければ、
美術という既得権益を守ることができます。
その上で、
「切断芸術運動」は、
美術というコンテクストに則りながらも、
その美術や芸術の成立を超単純化する事で、
美術システム内部から、
その美術システムの崩壊を企てている。
その様に私は理解しているわけです。
現在において、
美術というものを、
ある種神格化し、
一部の人間の特別な営みとする事自体が、
日本にとっても世界にとっても、
私は不利益だと考えています。
その上で今回10年以上ぶりに、
物理空間上で行われる展覧会に参加し、
何かしらの日本や世界の利益になればと、
今回参加させていただきました
(切断芸術とウェブインスタレーションについて)
現在のアートの成立にとって、
プラットフォームというものは重要です。
それは一つのアートプラットフォームと、
言っていいのかもしれません。
それは現在のテクノロジーや、
インターネット社会でも、
グーグル、アップル、フェイスブック。
様々なプラットフォーム企業が存在します。
そして例えば具体的に、
YouTubeなどのプラットフォームを使い、
様々な人々がそこで創造的活動を、
実際に行っています。
私はこれを、
現在においてのアート活動だと、
考えています。
まさにこの考え方は、
私が解釈する「切断芸術運動」に繋がります。
しかしここで疑問が浮かびます。
では私たちの様な、
アートを専門にする人間は、
民主的な創造者と同じなのか。
それではアートの専門家の意味がない。
だからこそ私は現在に求められる、
美術家やアーティストの役割が、
変わったのだと考えています。
それは現在の美術家やアーティストは、
プラットフォーマーに、
ならなければならないのです。
それは民主的な創造者に対し、
プラットフォームとなる芸術構造、
アーキテクチャとなる環境、定義、概念。
その様な、
民主的創造者に対して、
簡便な芸術構造を開発し提供する。
それが現在の、
芸術家、美術家に求められている機能、
であると考えています。
その点において、
彦坂尚嘉さんの「切断芸術」、
美学者母の「ウェブインスタレーション」、
それらは、
アートを簡便に成立させる為の、
アートプラットフォームであると言えます。
(通算44回 切断芸術運動展での美学者母の作品について)
今回、切断芸術運動展に参加させていただいたのですが、
実は東京には行っていません、
もちろん会場の「なかのZERO」にも伺っておらず、
さらに言うと展覧会場に作品も無いのです。
厳密に言えばウェブインスタレーションなので、
ウェブ上にあります。
今回この様な事にした理由を言説します。
まず私がウェブアート宣言をした、
2010年5月9日で私は、
物理空間での活動を基本的に辞めた、
という所から始まります。
それまでの20代の10年は、
全国の色々な場所へ行って活動していました。
しかし私はインターネットが広がる世界の中で、
物理空間での活動が非合理的であると考えました。
さらに明治以降の日本の美術は、
西洋の「絶対性」や「唯一性」などを、
根本原理にしたものでありましたが、
それはインターネットの登場と同じくし、
衰退の一途を辿っている事に気づきました。
例えば展覧会という様式も、
西洋から取り入れられた様式であり、
それは「唯一」のものを「観る」、
または「唯一」のものを「体験」する。
その様な根本的価値観に基づき、
成立している様式であるのです。
つまり今回私は、
「切断芸術運動展」という展覧会で、
「展覧会」というものを「切断」する。
その様な作品を展開しようと試みたわけです。
具体的にその内容は、
「通算44回 切断芸術運動展」の行われた、
「なかのZERO」の展覧会場で、
様々な美術家やアーティストの作品の間に、
何も展示されていない壁面と、
その作者と作品名とWEBアクセス用の、
QRコードが書かれたキャプションが、
貼られている。
その様な状態を会場に創って頂きました。
この「切断芸術運動展」用に創った、
ウェブインスタレーション作品のURLは、
https://www.setudan.com/
になります。
つまりここで大きな「切断」が創発されています。
物理空間で催されている、
「通算44回 切断芸術運動展」の展覧会場と、
その展覧会に出品しているはずの、
情報空間に設置されている、
「切断芸術(ウェブインスタレーション)」が、
物理空間と情報空間に切断されていることが、
理解できます。
またその設置場所の空間性の違いから、
物理空間上の空白は無意味であるはずが、
展覧会場において意味を持ち、
また情報空間上の作品は、
ウェブインスタレーションとして、
意味を持つはずですが、
物理空間上の展覧会場の意味に、
意味を剥奪され、
情報空間上において無意味になります。
これもまた、
意味と無意味、無意味と意味の切断です。
またこの情報空間に創造された造形は、
「通算44回 切断芸術運動展」に出品する為に作られました、
しかしその会期は、
2020年9月1日〜2020年9月7日。
この会期が終わると同時に、
この作品の概念は取り払われ、
インターネットに存在する無数の情報と、
並列的に並びその造形と概念は切断されます。
また言語学的に、
アートと定義した時をシーニュ、
物理空間のキャプションをシニフィアン、
情報空間の作品をシニフィエ、
という二つの側面に分けた時、
それは見事にシーニュを次元的に切断します。
(絶対性と収束の美術から相対性と分散のアートへ)
そもそも「ウェブアート宣言」における、
ウェブインスタレーションは民主的な、
アートフォーム、
アートプラットフォームです。
情報空間と物理空間を、
ディスプレイによってヴァインディングする。
それは情報空間と物理空間の違いが認識できない、
さらにその情報空間は、
あらゆるものがフラットに表象される。
私たちはその眼前に映し出される現実を、
フィクションではなく、
シミュレーションという事実として、
それを現に体験します。
「ウェブアート宣言」における、
ウェブインスタレーションは、
まさにアートシステムにおける、
「シミュレーショニズム」なのです。
(美学者母から最後に)
今回「通算44回 切断芸術運動展」に、
実際に参加しながらも、
その展覧会という様式、
つまり「絶対性」や「唯一性」への批判。
という形になりました。
しかし、
私が2010年に宣言した、
「ウェブアート宣言」による、
ウェブインスタレーションを、
10年以上展開してきた模索の中で。
今回、「美術システム」における、
「展覧会」という様式に紐づけることにより、
アートのコンテクスト上に載せる事が出来た事は。
展覧会という様式に参加する事にのみ可能でした。
今回の「通算44回 切断芸術運動展」への参加は、
私にとって非常に重要な展覧会であった事は、
最後に述べておきます。
私の今回の彦坂尚嘉さんの分析結果です。
「えーと、芸術分析をしておきます。
10界があります。
そして、5段階の《芸術》が成立しています。」
美学者母