ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン
「私たちは歩きたい。その為には摩擦が必要だ。
ざらざらした地面に戻ろう!」
これはルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン、
哲学探究の107節に書かれている言葉である。
本日で通算44回切断芸術展が終了した。
その上で最終日に、
美術評論家の宮田徹也さんの、
一言が今の日本の美術の問題を、
端的に表している様で、
非常に興味深かったので紹介する。
"宮田徹也さん
分断ではない、
接合があってこそ、
切断芸術は成立するのだ。"
これは一見非常に美しい言葉である。
しかし事実として、
現実的に接合はそんなに容易なことだろうか。
またその接合が容易であるとして、
その接合自体がフィクションではないのか。
私はその様に批判的に受け取るのです。
つまり民主的創造活動としての、
切断芸術の接合とは、
一見容易なものとして運用されるべきものです。
だからこそ、
切断芸術は切断し、
上下左右を入れ替える事で、
芸術が成立する様式として、
優れた様式だと私は考えています。
それはとても美しいものです。
しかしこの世界とは、
実際、現実として、
それほど生易しいものでもなく、
複雑に入れ混じりっており、
切断芸術の切断面の様に、
ツルツルとした表面ではないのです。
今回私もせっかく切断芸術運動展に、
光栄にも参加させていただき、
何か今後の切断芸術運動展の、
問題提起ができればいいなと、
考えていたのです。
そこで今回、
美術評論家の宮田徹也さんの一言が、
何か違和感の様なものを感じ、
この様に言説する事にしました。
私は今回の通算44回切断芸術運動展で、
「切断による接合」ではなく、
「切断によるズレ」を、
表象できたのでは無いか、
その様に考えています。
しかもそのズレは、
一般的な人々には認識できない程度の、
小さなズレです。
今回私が切断したものは、
非常に切断するには強固なものであり、
また切断しても、
そこから離れようとしません。
だからこそ、
そのザラザラとした切断面を、
なんとか少しズラした。
少しだけズラすことができた。
つまり私が何が言いたいのか。
それは「切断芸術」というものは、
「芸術の為の芸術」であり、
「美術の為の美術」として、
非常に簡便な様式であり美しい。
しかし実際の私たちの、
日常ではその様な美しさはなく、
また通用しないのではないか。
つまり、
ツルツルとした表面同士の接合に、
なんの意味があるというのだろうか。
現実的にその切断面は、
ザラザラしていて、
ズラす事さえままならない。
私は今回改めて、
ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン
「私たちは歩きたい。その為には摩擦が必要だ。
ざらざらした地面に戻ろう!」
この事を、
美術のコンテクストにおいて、
実践できたのではないかと、
自分なりにフィードバックしています。