No.394

晒される意味、晒される強さ、晒される美しさ。
(コミュニティの時代は終わった。
政治、経済、科学、司法、立法、行政。
何も信用できない世の中で何を信じて生きるのか)

text : mama(美学者母)
2020年10月2日(金曜日
)執筆

 

あっ久しぶりの文章。
まぁちょっと色々あって。

それで最近色々考えていることは、
やはり20年以上前に自分が確信して、
コミュニティや仲間内というもの、
そしてその中での評価や定義、
それを信用しない。

それがこの歳になって、
改めて間違っていなかったと、
強く再認しているのです。

まぁある一定のコミュニティ、
仲間内、
もっと言えば組織など。
その中での合理性や優位性などは、
私自身も理解している所です。

どんな問題や目的も、
そのコミュニティでは、
そのコミュニティの外では、
かなり難しいものも、
できてしまう。
その様な側面が大きくあります。

そしてその様な、
ある種の組織の力を使いたい、
あるいは自分の問題解決や、
目的達成の為に利用したい。

その様な我欲の為に、
本来興味のない組織、
例えば「宗教」や「会社」、
「政治団体」に属している。
その様な人々も多くいます。

しかし本当に能力や知恵がある人間は、
そもそもその様な、
低レベルに必然的になってしまう、
組織を利用した、
問題解決や目的達成を行いません。

ではどの様な形で、
次元の高い人間は、
その問題解決や目的達成を行うのか。

それがまさに、

「晒される」

という「オープンソース」な価値観。

この「晒される」という作法は、
組織やコミュニティの外側で、
様々なものに自らを「晒す」という、
ある種の「修行」です。

それは具体的に、
例えば私がこの様に書いている、
この下手な文章も、
「晒される」ことで、
どんどんと強度を増すわけです。

私が今回なぜこの様な事を、
言説しているのかというと、
直近である問題に対して、
弁護士を立てるのに、
友人のツテを頼ったのです。

私は弁護士を立てる事自体は、
初めてではないのですが、
これまでは縁もゆかりもない、
ある種、
「晒されている弁護士」に、
お願いしていました。

その様に「晒されている」人々は、
非常にセンシティブに、
自らの能力や評価を考え、
自らを研鑽しています。

しかし今回、
友人のツテを頼ってしまいました。
さらに言うと、
その弁護士と何度か話しましたが、
まるで話が通じない。
そしてまるでやる気が無い、
そもそも僕の法的利益を、
積極的に守ろうという態度がない。

僕は呆然としてしまい。
と同時に、
この弁護士は、
「晒されていない」と理解したわけです。

つまり何かしらの力学によって、
それは何かしらの繋がりやコミュニティ、
その様なものによって、
自分の立場が担保されている人間だと、
私に対する態度で明確に観えたわけです。

それは自分の能力や評価を、
研鑽しなくても、
弁護士の仕事が集まってくる。

ここに現在においての、
繋がりやコミュニティの落とし穴が、
あるのだと、
私は考えています。

 

現在においての最大のリスクは、
この様に、
自分が常にアップデートせずに、
また研鑽せずとも、
生きていける環境だと、
つくづく私は実感しています。

この状況になると、
そこにいる当人は、
もはやそのことに気づけなくなっています。

現在あらゆるもの、
政治、経済、科学、司法、立法、行政。
近代では信用している事が自明なものの、
すべてが信用できないものになっています。

例えば、 警察、公務員、裁判官、弁護士、
医者、先生、科学者、経営者。

それらは総じて、
その言葉の概念に安住できる、
近代にステータスのあった立場です。

しかし人間にとって、
「安住」こそ人間を腐らす原因です。

そして、
常に「晒される」ことこそ、
自らの研鑽を強いる動機はありません。

私たち人間は、
常に「組織の外」、
「コミュニティの外」、
「仲間内の外」、
「言葉の外」、「概念の外」。

その外側にいる事から逃げてはいけません。

なぜならその「外側にしか」、
自らの「知恵」や「成長」、
「問題解決」や「目的達成」は無いからです。

「私」という人間は、
「私」という人間を強いられています。
「男」は、
「男」という性別を、
「女」は、
「女」という性別を強いられています。
「日本人」は、
「日本人」というものを強いられています。

つまり私たち人間は、
生まれ成長していく過程で、
あらゆる「概念」や「定義」を、
強いられて、
私たちが何かを自由に創造する事を、
犯されているのです。

つまりそれが「勉強」です。

しかし私たち人間は、
成長と共に「大人」になり、
様々な「体験」をしていきます。

その上で、
フィジカルを基に思考する事。
それが「学ぶ」という事なのです。

私たちは「体験」を通して、
本来的な知性や知恵を会得します。

しかし現在は、
フィジカルを伴わない「勉強」に終始し、
それを「知性」や「知恵」と勘違いし、
大きな失敗もなく、
学者や経営者、
裁判官や弁護士、
先生や医者になるわけです。

これら、
「体験」の無い「勉強」は、
人間にとって何の意味も無く、
何の機能も果たさない。

だからこそ、
現在では、
近代ではステータスの、
高かった立場の人間が無能になっている。

そしてその「体験」とは、
あらゆるものの「外」でしか、
その「体験」はできないのです。

つまり、
貴方が今観ている。
この私の言説には、
言語や言葉、
文章という外側にこそ、
「知識」や「知恵」を会得する、
その体験があるという真理。

 

さて「コップ」を観て 、
「コップ」以外の可能性を、
体験できない貴方は、
「コップ」というものを、
「コップ」であると、
強いられているのであり、
「コップ」以外の可能性こそが、
フィジカルを伴った「学び」であり、
「知識」や「知恵」を会得する、
唯一の真理である事を知らないのです。

だからこそ、
私たちは「外で晒される」、
その事を恐れてはいけないのです。

 

 

 

美学者母

 

 

 

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