あっ久しぶりの文章。
まぁちょっと色々あって。
それで最近色々考えていることは、
やはり20年以上前に自分が確信して、
コミュニティや仲間内というもの、
そしてその中での評価や定義、
それを信用しない。
それがこの歳になって、
改めて間違っていなかったと、
強く再認しているのです。
まぁある一定のコミュニティ、
仲間内、
もっと言えば組織など。
その中での合理性や優位性などは、
私自身も理解している所です。
どんな問題や目的も、
そのコミュニティでは、
そのコミュニティの外では、
かなり難しいものも、
できてしまう。
その様な側面が大きくあります。
そしてその様な、
ある種の組織の力を使いたい、
あるいは自分の問題解決や、
目的達成の為に利用したい。
その様な我欲の為に、
本来興味のない組織、
例えば「宗教」や「会社」、
「政治団体」に属している。
その様な人々も多くいます。
しかし本当に能力や知恵がある人間は、
そもそもその様な、
低レベルに必然的になってしまう、
組織を利用した、
問題解決や目的達成を行いません。
ではどの様な形で、
次元の高い人間は、
その問題解決や目的達成を行うのか。
それがまさに、
「晒される」
という「オープンソース」な価値観。
この「晒される」という作法は、
組織やコミュニティの外側で、
様々なものに自らを「晒す」という、
ある種の「修行」です。
それは具体的に、
例えば私がこの様に書いている、
この下手な文章も、
「晒される」ことで、
どんどんと強度を増すわけです。
私が今回なぜこの様な事を、
言説しているのかというと、
直近である問題に対して、
弁護士を立てるのに、
友人のツテを頼ったのです。
私は弁護士を立てる事自体は、
初めてではないのですが、
これまでは縁もゆかりもない、
ある種、
「晒されている弁護士」に、
お願いしていました。
その様に「晒されている」人々は、
非常にセンシティブに、
自らの能力や評価を考え、
自らを研鑽しています。
しかし今回、
友人のツテを頼ってしまいました。
さらに言うと、
その弁護士と何度か話しましたが、
まるで話が通じない。
そしてまるでやる気が無い、
そもそも僕の法的利益を、
積極的に守ろうという態度がない。
僕は呆然としてしまい。
と同時に、
この弁護士は、
「晒されていない」と理解したわけです。
つまり何かしらの力学によって、
それは何かしらの繋がりやコミュニティ、
その様なものによって、
自分の立場が担保されている人間だと、
私に対する態度で明確に観えたわけです。
それは自分の能力や評価を、
研鑽しなくても、
弁護士の仕事が集まってくる。
ここに現在においての、
繋がりやコミュニティの落とし穴が、
あるのだと、
私は考えています。
現在においての最大のリスクは、
この様に、
自分が常にアップデートせずに、
また研鑽せずとも、
生きていける環境だと、
つくづく私は実感しています。
この状況になると、
そこにいる当人は、
もはやそのことに気づけなくなっています。
現在あらゆるもの、
政治、経済、科学、司法、立法、行政。
近代では信用している事が自明なものの、
すべてが信用できないものになっています。
例えば、
警察、公務員、裁判官、弁護士、
医者、先生、科学者、経営者。
それらは総じて、
その言葉の概念に安住できる、
近代にステータスのあった立場です。
しかし人間にとって、
「安住」こそ人間を腐らす原因です。
そして、
常に「晒される」ことこそ、
自らの研鑽を強いる動機はありません。
私たち人間は、
常に「組織の外」、
「コミュニティの外」、
「仲間内の外」、
「言葉の外」、「概念の外」。
その外側にいる事から逃げてはいけません。
なぜならその「外側にしか」、
自らの「知恵」や「成長」、
「問題解決」や「目的達成」は無いからです。
「私」という人間は、
「私」という人間を強いられています。
「男」は、
「男」という性別を、
「女」は、
「女」という性別を強いられています。
「日本人」は、
「日本人」というものを強いられています。
つまり私たち人間は、
生まれ成長していく過程で、
あらゆる「概念」や「定義」を、
強いられて、
私たちが何かを自由に創造する事を、
犯されているのです。
つまりそれが「勉強」です。
しかし私たち人間は、
成長と共に「大人」になり、
様々な「体験」をしていきます。
その上で、
フィジカルを基に思考する事。
それが「学ぶ」という事なのです。
私たちは「体験」を通して、
本来的な知性や知恵を会得します。
しかし現在は、
フィジカルを伴わない「勉強」に終始し、
それを「知性」や「知恵」と勘違いし、
大きな失敗もなく、
学者や経営者、
裁判官や弁護士、
先生や医者になるわけです。
これら、
「体験」の無い「勉強」は、
人間にとって何の意味も無く、
何の機能も果たさない。
だからこそ、
現在では、
近代ではステータスの、
高かった立場の人間が無能になっている。
そしてその「体験」とは、
あらゆるものの「外」でしか、
その「体験」はできないのです。
つまり、
貴方が今観ている。
この私の言説には、
言語や言葉、
文章という外側にこそ、
「知識」や「知恵」を会得する、
その体験があるという真理。
さて「コップ」を観て
、
「コップ」以外の可能性を、
体験できない貴方は、
「コップ」というものを、
「コップ」であると、
強いられているのであり、
「コップ」以外の可能性こそが、
フィジカルを伴った「学び」であり、
「知識」や「知恵」を会得する、
唯一の真理である事を知らないのです。
だからこそ、
私たちは「外で晒される」、
その事を恐れてはいけないのです。
美学者母