No.400

2021年以降の美学者母のアート活動方針
(届けるべき人間へ届く、
届けるべきでない人間へ届けない。
表現のオープンソースから表現の観客へ、
表現の中央集権から分散化の時代へのアジャスト)

text : mama(美学者母)
2021年3月9日(火曜日
)執筆

 

皆さんお久しぶりです!!!

2021年になりましたねぇwww
もう3月に入っていますが、
2021年最初の言説になります。

昨年の2020年から考えていたのですが、
私のアート活動の方針を少し変えようと、
その上である程度、
私の態勢が整ってからこの様な文章を、
再度書いていこうと考えていたのですが、
全くもって進捗が進まないので、
態勢を整える前に、
2021年以降の美学者母のアート活動方針を、
この時点で明示しておきたいと思います。

まず結論から申しますと、
題目でも書いてある通りなのですが、

(届けるべき人間へ届く、
届けるべきでない人間へ届けない。
表現のオープンソースから表現の観客へ、
表現の中央集権から分散化の時代へのアジャスト)

この題目に集約されています。

まず私がこの様な境地に至った経緯をご説明します。

 

私は2010年5月9日に、
ウェブアート宣言を宣言し、
ウェブインスタレーションという芸術概念を創造し、
その実践としてこの様な言論活動を行っています。

そして今日現在2021年3月9日ですが、
ほぼ11年このアート活動をしてきております。
その上でこの11年間で、
インターネットは急速に変化し、
またこれからも変化し続ける。

その様な状況の中で、
私のアート活動も、
柔軟に微調整を続けていかなければなりません。

ただ「ウェブアート宣言」は、
この世界の真理の表層として、
私は創造しており、
11年前に私が観えた世界は、
どんどんとそのアウトラインを、
確実に顕在化してきています。

しかしその様な、
情報世界と物理世界のバインディングした世界にも、
ポジティブな側面とネガティブな側面がある、
その様な陰と陽があるのも真理であり、
光があれば影があり、
それは一対のものである。

しかし私たち人間は、
常に影の下に居ながらも、
常に光を目指す。

そしてその中でもがき苦しみながら、
命を燃やすのだと考えています。

つまり私たち人間それぞれは、
常に影の下に存在し、
光の下を目指し、
自分の頭上にその光がさすことを望み、
その場所を目指すが、
辿り着いたその時には、
光はすでにその場所から離れ、
更に先にその光が移動している。

つまりこれが、
「生きる」 という事でしょう。

具体的に私は1999年頃からインターネットを始め、
そのインターネットの世界に魅了され、
これで世界が激変する事を確信しました。

その中でも、
「オープンソース」 という思考形態は、
「情報」「知識」「知恵」などを、
独占するのではなく、
ある種の「共有の財産」として扱う事で、
その「情報」「知識」「知恵」を持つものだけでなく、
より多くの人々が「幸せ」を得る事ができ、
素晴らしい「思考形態」である。

当時のその様な考えのもと、
私はインターネットの活動、
アート活動を行ってきました。

それはある種、
「アートの民主化」であり、
「表現の民主化」であり、
「創造の民主化」であったわけです。

 

それは私の様な、
学歴も人脈も信用もない人間にとって、
恰好のアート活動の場であったわけです。

その様な流れから、
2010年に「ウェブアート宣言」を宣言。

それ以降もインターネットを中心に、
活動し現在に至っています。

しかし現在2021年において、
私は様々な問題を実感しています。

それは、
ここ数年実感している事ですが、
アウトプットが容易であるからこその、
誹謗中傷などの問題、
オープンソースをベースにした、
情報過多によるインプットの問題です。

この問題意識は、
私がインターネット黎明期に、
インターネットの可能性や、
オープンソースの有用性などに、
いち早く気づいた人々の間では、
ある種2021年において非常に深刻な問題である。
その様な共通認識を持っているわけです。

これはインターネットが普及する以前には、
逆の問題であったもので、
インターネット以前は個人がアウトプットするには、
組織や資本などがなければ、
そもそもアウトプットする場もなければ、
それを受け取ってくれる多くの人間もいなかったわけです。

インプットの問題では、
個人が様々な情報へのアクセスや取得することは、
重要な情報ほど個人レベルではインプットが難しかった。

しかし2021年現在、
個人はそのどちらも獲得してしまったのです。

それは前述した、
ポジティブな面が大きいとともに、
現在においてネガティブな面が顕在化してきています。

この様な、
大量の情報のアウトプットが個人から発信され、
大量の情報をインプットする。
この様な状況は、
その前提としてある程度、
情報は優れた情報が、
劣った情報を淘汰する。

つまり情報は取捨選択され先鋭化する。
その様な希望的観測が行われていたわけです。

しかし現実は、
私が「ウェブアート宣言」で宣言した様に、
虚像と実像がディスプレイでバインディングされ、
そのディスプレイそのものに「現実」や「真実」を観る。

まさに私の芸術概念である、
「ウェブインスタレーション」そのものが、
「芸術」という「作法」としてではなく、
正に人々にとっての、
「現実」や「真実」として機能し、
ある種の「洗脳」状態が個々人で発生し、
その「洗脳」状態」が、
個々人の「ディスプレイ」(現実や真実)により、
連続性を失い断絶を起こしているのです。

つまり個々人の臨場感が、
インターネット以前の時代では、
ある種、
物理空間の物理の法則により「現実」や「真実」を、
その再現性を根拠に連続性を保っていたものが。

インターネット以後の情報空間では、
もはやそのディスプレイに「現実」や「真実」、
つまり臨場感を実感するのである。

それはつまりそれまでの物理空間に対し、
臨場感を失う事であり、
それはまたその連続性を失うという事である。

この様な現象をメタ認知から考察すると、
「近代の終焉」なのである。

つまりインターネット以前までが近代であり、
インターネット以降は時代が変わったのである。

それを作品化したものが、
私の、

「スマートアート宣言」

「デリバティブアート宣言」

なのである。

それを具体的に述べると 近代とは西洋の概念や価値観、
すなわち「絶対」「絶対的」「唯一」「唯一性」、
それらがあるのだという時代である。

それはキリスト教的「一神教」の価値観であり、
「絶対神」を持つ思想である。

それは「錬金術」からの「科学」とも繋がり、
究極は「科学信仰」へとなる。

しかし、
その様な「絶対」を頂点とした、
三角形の階層構造と、
様々な物事の「民主化」は、
本質的に並列し難いものであリ、
パラドックスを生じさせる。

それが正に、
現在のインターネットが普遍的になった、
現在の現象である。

つまりそれは、
私たちが「一つの世界」として信じていた、
「世界」の崩壊である。

それは哲学的には、
ジャン=フランソワ・リオタールの、
「大きな物語」であり、
正に「ポストモダン」が、
「大きな物語の終焉」となる。

さらに認知問題としても、
個々人に「世界」が存在するのであって、
個々人は全く同一の「世界」を認知していない。

その様な事としても理解できる。
そしてこの様な事から、
「世界」そのものが「分裂」し、
「世界」、
つまり人間の「前提条件」が、
違うもの同士が、
理解し得ない現象として顕在化している。

それらはある種の、
「人間そのものの劣化」であるのだが、
しかしそれは、
ある種の「中央集権」を無意識に内在した、
「民主化」である。

「中央主権」を無意識に内在した「民主化」は、
「大衆」を生み出し、
個々人の劣化を結果的に生み出すのである。

だからこそ、
現在最も議論されているものが「分散化」である。

「分散化」とは「閉鎖された小さな世界」ではない。
「主体性を持った個々人の世界」が、
その他の、 「主体性を持った個々人の世界」と関係し、
それぞれに機能を持ち、
それが全体という「新たな世界という概念」を創造する。

これを簡便に言説するなら、
「仏教」においての「縁起」や「空」の概念である。

「部分は全体を定義し、全体は部分を定義する。」

つまり、
「私」は「全体」であり、
「全体」は「私」である。
その様な認知である。

日本において、
実は縄文期には分散型の世界であった。
そして弥生期に中央集権型に変わっていくが、
縄文期の縄文土器の魅力には分散型の世界が内在する。

この「分散型世界」において、
私が原理として理解しなければならない「作法」は、
他者を理解するという事であり、
それを主体的な立場から簡便に言えば、
題目の、

「届けるべき人間へ届く、届けるべきでない人間へ届けない」

この様な「作法」が必須になってくると考えている。

これを美学者母の活動や思考で言い換えるならば、
アウトプットで言えば、
オープンソースに情報を拡散し撒き散らすのではなく、
情報を届ける個々人を選択する。

インプットで言えば、
オープンソースに拡散し撒き散らされた情報を、
受動的に受け取るのではなく、
あくまで情報は能動的に獲得する。

この様な「作法」が、
これからの時代に必須の「作法」となる。

つまり私が考えている事は、
全ての個々人が「愛」に満たされた「営み」を全うしてほしい。
ただそれだけである。

では具体的に2021年以降、
美学者母のアート活動はどう変わるのか、
それはつまり、
美学者母の作品は愛であると考えています。

つまり美学者母の「愛」を受け取りたくない人に、
「愛」を届けない様にしなければならない。
それは美学者母自身も、
ある種の「一つの世界」を前提に、
アート活動をしてきたのだという事と、
またその反省として、
その「作法」を改めるという事です。

それは自分にとっての「愛」が、
個々人によっては必要の無いものである。

その様な世界の違いからの改です。

 

さらに言えば、
美学者母自身も、
必要で無い個々人に届く事は本望では無いし、
必要な人に届く事こそ、
つまり欠損の補い合いこそ「愛」の原理であり、
また「世界」の真理であるからです。

 

※ 添付図参照

 

具体的にどの様に個々人をスクリーニングするのか、
それは様々なコンテンツや作品の有料化です。
能動的でお金を払うというバリアを設ける事で、
スクリーニングをしていきたいと考えています。

現在少しずつ有料化を進めています。
有料化が終わってからこの言説を公開する予定でしたが、
そもそも2021年中に終わらないかもしれないので、
有料化より先出しでこの言説を公開します。

この文章は、
有料化への言説なので、
多分、
有料化しないと思います。

最後に添付図について。
私はアートとは自己表現では無いと考えています。

それは前提条件としてです。
結果として自己の表現になっているでしょうが。

アートとはその起源から、
「目に見えぬ何か」に対して行う活動である。
私はその様に考えています。

それは日本でも西洋でも、
またその他の国々でも同じです。

つまりアートとは捧げるものであり、
アートをする事で、
何かが返ってくるものではないのです。

私は自分自身のアート活動を、

「根拠なき使命感」

その様に表現しています。

それはまさに、
「目に見えぬ何か」に衝き動かされているわけです。
そこにはもはや、
「自由意志」や「我」は存在しません。

アートは総じてナルシズムに陥りがちであり、
それは「近代が生み出した病」だと考えています。
そしてデザインとは人間に対して行う行為です。

つまりアートが一般的に理解しがたい秘密は、
アートが、
「目に見えぬ何か」 に対して行なっている行為だからです。

本来人間の営みの本質とはそういうものであった、
特に日本人はその様な文化を最近まで持っていました。

だからこそ、

皆様にはその様な事への気づきになれば幸いです。

 

 

 

 

美学者母

 

 

 

 

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