アートにおけるアウラとアウラの消滅、
複製時代におけるコピーとオリジナル、
そしてデジタル時代の代替性と非代替性としてのデジタルアウラ。
(ブロックチェーン技術の非代替性トークン、
NFT . Non Fungible Token:ノンファンジブル・トークン。)
お久しぶり〜ふ!!!
という事で美学者母です。
さて今日現在もまだコロナな収束には至っていない、
ワクチンは開発され、
今後ワクチン接種が一般にも広がってくるであろう。
しかしまだまだコロナ収束へは時間がかかりそうで、
2021年東京オリンピックには間に合いそうもないし、
2021年中には平常には戻れないだろう。
そしてそんな世の中でも、
世界はどんどんとダイナミックな変化を続けている。
私の場合は特別に、
コロナが流行してからの方が、
人と接する機会が増えたのだが、
色々な話を聞いていると、
日本はとてもやばい状況になっている実感が、
手に取るように理解できた。
今回のコロナで、
かなり仕事を無くした人々の実態が見えた、
また元々の仕事から転職を余儀なくされている。
そしてその様な状態に陥っている人間のほとんどは、
現在までのダイナミックな世界の変革に乗り遅れた人々である。
人々というよりも、
日本という国家そのものが、
その様なダイナミックな変化に乗れていない。
そもそも観えてもいないし理解もしていない。
これはもはや日本にとって致命的である。
今回は、
現在世界の様々な所で、
どの様な変革が起こり世界はどう変わろうとしているのか、
その様な言説をしていきたい。
その上で私はアートが専門なので、
アートのコンテクストの中で言説するが、
この様な旧体制と現状のキャズムは、
アートに限らず、
現状の日本の没落の原理として存在する。
まだ多くの日本人は「近代」を生きているのである。
しかしもうそれは許されないのであり、
それにアジャストしていかなければ、
ただ淘汰される事を待つだけである。
今回は「変わりたい」。
「変わろうとする貴方」へのアドバイスとなる。
まずアートの話として
時空が結びついた刹那的体験として、
その価値を担保している。
つまり現在の美術館などで行われる展覧会や、
ギャラリーや画廊といったものは、
その唯一絶対性に出会う時空であり、
そこにある刹那的体験こそがアートの原理である。
当初それは貴族などが、
自宅などで独占されていたものを、
解放し民主化されたものが、
現在の美術館システムである。
しかし時代が進み、
テクノロジーが進歩し、
写真などの複製技術が生まれた事で、
そもそものオリジナルという問題が、
アート界に産まれてきたのである。
この様な問題の上で、
そもそもアートの価値というものを、
問い直さなければならなくなったわけである。
そして複製技術以前と以後では、
アートそのもの捉え方を変えなくてはならなくなった。
それがドイツ思想家のヴォルター・ベンヤミンの、
「アウラ」と「アウラの消滅」である。
そもそもアートの価値を担保してきたのは、
時間と空間、
そしてそこでの一回性の刹那的体験である。
つまりその様な体験こそ「アウラ」である
。
しかし複製技術が産まれた事によって、
価値担保できなくなった。
それが「アウラの消滅」である。
そして「アウラの消滅」以後、
アートは新たな次元に移ったわけであるが、
常に「オリジナル」と「コピー」というものが、
アートにおいて問題とされてきている。
まさにこの事は、
いかに「近代」が大量生産大量消費社会であり、
またその人間としての概念と言える「大衆」を産み出し、
「アート」の「オリジナル」や「コピー」を問題としながらも、
私たち人間の、
「個人性」と「大衆性」が問題にされてきた、
その様に捉えることもできる。
まさにこの様な「世界観」が「近代」である。
そして現在の状況に言説を移していくのだが、
現在のアート、
特に日本のアートの「中の人」たちは、
実はこの「近代」にも到達せずに、
まだ「アウラ」を追求し活動している人間ばかりである。
私はその現実を目の当たりにしている。
これはアート界に限らず、
世間一般的な感度とそう変わりない。
これは日本において危機的状況である。
そして現在のデジタル時代、
つまり写真の世界で言えば、
フィルムからデジタルデータに変わったわけである。
その上で1990年代に「インターネット」が普及し、
私たちは「ディスプレイ」越しに、
無限の情報を得る環境を手に入れたのである。
それはもはや、
「オリジナル」と「コピー」という概念でさえ、
超越したものが現れたと言える。
なぜならそもそも、
私たちがインターネットにアクセスし、
そのディスプレイに映し出される、
様々な情報は、
「オリジナル」なのか?
「コピー」なのか?
もう現在において、
その様な問いは愚問なのである。
この様な「世界」に、
いち早く気づいた日本のアーティストとして、
「カオスラウンジ」は早かった。
私は2010年5月に「ウェブアート宣言」を宣言しているが、
カオスラウンジは2010年4月だったと記憶しているが、
「カオスラウンジ宣言」を宣言している。
同時期に近しいコンテクストを作品化しているわけだが、
カオスラウンジはアート界で名を馳せたが、
私は2021年にしてまだ無名であるwww
しかし2020年にセクハラ問題を起こし、
表舞台から姿を消した。
有名になることが価値であるという時代は、
もう終わったのだろう。
なぜなら「有名」であるという事は、
それが「唯一性」や「絶対性」を有しているからである。
その様な意味で言えば、
カオスラウンジは近代のアーティストであったのかもしれない。
ここからは、
現在の世界の状況である、
「代替性と非代替性の時代」
この事について言説していく事にする。
ではこの「インターネット時代」において、
私たちが観ているディスプレイに表示される、
様々な情報を、
「オリジナル」や「コピー」ではなく、
どの様に理解すればいいのであろうか。
その答えがまさに、
「代替性」と「非代替性」という、
捉え方である。
そもそも私たちは近代まで、
その「もの」そのものに、
絶対的存在というものを感じ、
そしてそれを自明としてきたのである。
つまりそれは逆説的に、
対象としての「存在」が、
「人間以前性」を持っているのである。
その様な解釈なのだ。
しかし「認知」の研究が進んでいる現在、
そもそも「存在」であるとか、
そこにそれが「有る」とか「無い」というのは、
「人間以前性」には存在しないので有る。
つまりそこに「存在」するというのは、
「人間」の対象に「存在」するのであって、
「存在」だけが「絶対的存在」として、
「存在」できないという事である。
つまり「絶対存在」は存在できないのである。
その様な前提から、
「オリジナル」や「コピー」そのものが、
「存在」できないのである。
なぜなら「オリジナル」とは、
「もの」としての「絶対存在」であり、
「コピー」はその複製品であるからだ。
これは西洋キリスト教的な、
「一神教」のコンテクストである。
そしてそれは、
現在においての日本や、
西洋を中心とした「グローバリズム」、
その様な「中央集権」として集約される。
それに対して現在は、
「近代」の終わりと同じくして、
「中央集権」的な世界も終わり、
「分散型」の世界へと急速に向かっている。
その「分散型」の創発として、
「インターネット」は登場したのである。
そもそもインターネットは、
「中央」の無い、
「分散型ネットワーク」である。
私はインターネット黎明期の1998年ごろから、
インターネットを活用しており、
アート活動もインターネットを活動の場としている。
また2010年には「ウェブアート宣言」を宣言している。
また私は2017年5月から、
仮想通貨(暗号資産)のトレードを始めて、
2017年12月の仮想通貨バブルを経験している。
また現在も暗号資産トレーダーである。
つまり私はインターネットで20年以上活動し、
いち早く「分散型」の世界の訪れを捉え、
ブロックチェーンの重要性を考えたのである。
まさにこれから爆発的に広がるであろう、
「ブロックチェーン技術」であり、
ビットコインなどを中心に、
それを認知する人々もかなり広がった。
この様な分散型世界を実現する、
「ブロックチェーン」の中でも、
現在重要な応用技術として、
NFT . Non Fungible Token:ノンファンジブル・トークン。
がある。
ファンジブルとは代替性であり、
ノンファンジブルとは非代替性である。
前述した基本的な話では、
ディスプレイに表示される、
インターネット世界の情報は、
「オリジナル」と「コピー」の関係では無い、
その様に述べたわけである。
それはそもそも「オリジナル」というものは、
存在しないからである。
それは「絶対存在」が存在しないからである。
ではディスプレイに表示された情報はどう捉えるのか、
それは「代替」された「現象」である。
それを理解するには、
そもそも「存在」とは、
その「現象」を「認知」する「人間」に依存する。
このことを理解できなくてはならない。
「認知」的問題として、
人間は知っている事しか「観えない」、
人間は知っている事しか「理解できない」わけです。
この事をもう少し突き詰めると、
逆説的に私たちは、
「私」が「知っている事」、
でしか「もの」を理解する事ができないのである。
つまり「人間への情報伝達の不完全性」が、
理解できます。
この様な前提条件をもとにすると、
インターネット世界にある情報は、
デジタルデータとして、
つまり二進法の(有る)と(無い)という、
人間にとって一番単純な「現象」なのです。
つまりその時点では、
ファンジブル(代替性)を有しています。
しかしディスプレイに表示され、
それを認知する「私」との関係性により、
そのファンジブル(代替性)のデータは、
ノンファンジブル(非代替性)の認知をして、
それを「認知する私」という体験をするわけです。
これらを理解した上で、
NFT . Non Fungible Token:ノンファンジブル・トークンとは、
つまり、
インターネット上の応用技術として、
ブロックチェーンを使い、
さらにその情報に、
ノンファンジブル(非代替性)の性質を持たせる。
つまり、
NFT . Non Fungible Token:ノンファンジブル・トークンは、
インターネット世界の応用技術である、
ブロックチェーン上では、
ノンファンジブル(非代替性)としての性質をもつが、
ディスプレイに表示され、
それを認知する「私」との関係性により、
そのノンファンジブル(非代替性)のデータは、
ファンジブル(代替性)の認知をして、
ノンファンジブル(非代替性)という体験をする。
ここはかなり複雑な言説になっていますが、
物理世界のファンジブル(代替性)とノンファンジブル(非代替性)、
NFTのファンジブル(代替性)とノンファンジブル(非代替性)、
これが「逆相関」の関係になるという真理です。
ではその真理とはなんでしょうか、
それは、
私たち人間は、
「強烈な思い込みの世界に生きている」
その様な真理です。
私は2017年に仮想通貨のフィールドワークをし、
「価値の創造」の研究をしました。
このアナロジーな「開いた系」に、
「意味」や「概念」を持つ、
それはデジタルな「閉じた系」を生きるのが、
「人間」です。
そしてその「閉じた系」をアップデートしていく事が、
「自ら考える」という事であり、
「生きる」という事なのです。
私の考えでは、
これまでの物理世界での、
「人間の強烈な思い込み」以上に、
インターネット世界での、
「人間の強烈な思い込み」は、
さらにその思い込み強度が強化されます。
さらにその力は強力であり、
現状でもその様な自ら考えずに、
「流れてくる情報」に、
帰依する人々が溢れかえっています。
そしてこの事を理解できている人間と、
理解できていない人間に、
完全な格差が産まれ、
「二極化」が始まっています。
この「現在の世界」を生き残るには、
「代替性」と「非代替性」を理解する事が必要です。
つまり「人間の強烈な思い込み」です。
「代替できる」、
「代替できない」、
この問題は、
もはや私たち自身の思考の問題であり、
その思考を持つアーキテクチャとの、
関係性の問題、
相対性の問題、
つまり「私」と「対象」との関係性に「心」があるのです。
美学者母